課題 >> 16. 「日常世界における疲労を解決する」 を読んでください。

日常世界における疲労を解決する

働くべきか、働かざるべきか? それが問題です。 ほとんどの人がこの問題に対して最終的に抱く答えは、「疲労」です。

人はひとつの仕事に長い間従事して、極端に酷使されると、これ以上働いたら我慢の限界を超えてしまうと感じ始めます。 その人は疲れているのです。 また、何かをしようと考えることで、その人は疲れてしまいます。 そんな時、私たちは、何とか自分の精力を振り絞ろうと考えたり、もう少しだけがんばることができると考えたりします。 しかし、それでは見当違いをしていることになります。なぜなら、疲労に対する答えは、どう見ても、精力とはほとんど関係がないからです。

疲労は、非常に重要な主題です。ただ生計を立てる個人にとってばかりでなく、国家にとっても重要な主題なのです。

サイエントロジーがほぼ完全に立証した事実ですが、個人の没落は、その人がもうそれ以上働けなくなった時から始まります。 仕事を行うのを妨げられただけで、人は堕落したり、動揺したりしてしまいます。 今日では警察も、サイエントロジーのこの基本的原理を理解し始めました。主に、犯罪者にある問題は、彼が働くことができないということです。警察は、犯罪者が有罪かどうかを証明する際に、この要因を探し求めるようになりました。

疲労という問題は、「仕事をするのを妨げられる」問題とも言えます。 最近のどの戦争においても、病院に収容された兵士や水兵がそこで数ヵ月過ごすと、任務に復帰した時には、その「価値」が疑わしいものになってしまうほど戦闘意欲に低下が見られる傾向があることがわかりました。 これは、必ずしも兵士の能力が低下した結果ではありません。 それは、無活動状態によって一層ひどくなった傷害の結果です。 傷害を受けて、「前線」にごく近い野戦病院で治療を受け、そのような任務に何とか耐えられるようになるとすぐに任務に戻される兵士は、大いに戦闘意欲を保っていることがわかるでしょう。 もちろん、彼は受けた傷害によって、恐らくかつて自分が最高レベルだと考えていた行動を行えなくなってしまう傾向があるでしょうが、 それでも「後方」にある病院に送られる兵士よりも、良い状態にあります。 後方にある病院に送られる兵士は、彼にとってみれば、この戦争には自分は特に必要ではないと言われているのです。

実際にこれらの原則が加味されなかったために、「疲労」という言葉は、「ノイローゼ」と結び付いて一般に使われるようになりました。 さて、これはノイローゼにかかっている人はただ疲労しているように見えるという事実に基づいていました。 両者の間にはそれ以上の関係はありませんでした。 実際に労働する権利を奪われた人、特に傷害を受け、労働する権利を奪われた人は、結果的に、疲労を感じることになるのです。

サイエントロジーで技術的に発見されたことですが、「人間の精力が、絶えず接触し続けることによって徐々に減少する」といったことはありません。 長時間働いたり、激しく働いたからといって、ただそれだけで人は疲労したりはしません。 人は、何らかの昔のケガを再刺激してしまうほど長い間働くと、疲労するのです。 このケガの特徴のひとつが「疲労」です。 したがって、慢性的に続く疲労は、長時間、骨の折れることをすることによって生まれるものではありません。 人生に付随する精神的ショックやケガが蓄積して、その結果として生まれるものなのです。もしかしたら、そのどちらも数秒から数時間のものかもしれず、合計しても、もしかするとたった50時間から75時間かもしれません。 しかし、この蓄積(ケガ、嫌悪感、精神的ショックの蓄積)が結果的に、全く何もできなくなる状態にまで達するのです。

子供の頃に社会の一員として認められなかったことによって、疲労というものが教え込まれることがあります。 あるいは、人が行う特定の活動の結果として受けるさまざまなケガやショックによって、疲労は人の中に叩き込まれることがあるのです。 これらふたつのどちらかをすっかり取り去れば、疲労を完全に消し去ることになります。 したがって、疲労とは実際、サイエントロジー実践者が扱う問題です。なぜなら、サイエントロジストだけが適切にそれを処理することができるからです。

しかし、疲労よりも下の点があります。 それは、疲れていても自分が疲れていることがわからない地点です。 人は、自分が働いていることなど全く気付かずに、働き、働き、働き続け、突然、彼が感じていなかった疲労によって倒れてしまうという、言わば、てんてこ舞いの操り人形のようなものになりかねません。

この場合、その人は物事をコントロールし損ねたのです。 最後には、商売道具や仕事の環境に似たようなものさえ何も処理することができず、そのため、そういった環境にいたり、そういった道具を扱うことができなくなるのです。 この人に、たくさんの手厳しい言葉が投げ掛けられるかもしれません。 「怠け者」、「浮浪者」、「犯罪者」と呼ばれることもあるでしょう。 しかし、実のところ彼は、専門家の力を借りなければ、自分自身を良い状態に立て直すことができません。地球の核へと飛び込むことができないのと同じです。

サイエントロジー実践者とともに密接に取り組まなくても、仕事に対する人の気力や熱意を回復する方法がいくつかあります。 これらの方法は比較的単純で、とても理解しやすいものです。

外向化-内向化

サイエントロジーで「内向化」と呼んでいるものがあります。

もうひとつのものは「外向化」と呼んでいます。

内向化とは単純なことです。 「内側へとあまりにも綿密に見る」ということです。

そして、外向化も単純です。 「外側へと目を向けることができる」ということに外なりません。

「内向的な性格」の人と「外向的な性格」の人が存在する、と言うことができるでしょう。 外向的な性格の人は、自分のいる環境を見回すことができます。 内向的な性格の人は、自分自身の内側しか見ることができません。

自分の周囲の世界を見て、それを実に現実的に鮮明に見ることができる人は、当然、外向した状態にいます。 つまり、その人は「外に目を向ける」ことができます。 また、仕事をすることもできます。 また、状況を見て、処理しコントロールしなければならないことを処理し、コントロールすることもできるのです。そして、コントロールする必要がなく、したがって関心を持つ必要がないものは、ただ傍観することができるのです。

内向的な人は、恐らくずっと以前に、疲労を経験してきた人です。 こういう人は、自分の内面へ内面へと注意を向けてしまいます。(これは、基本的には、彼に依然として影響を及ぼし得る以前のケガによるものです。)遂には、その人は実際に内側に目を向けていて、外側に目を向けることがなくなってしまいます。 固体を避けて、 他の人たちや自分の周りにある物に現実性を見ることはありません。

さてそれでは、仕事という実際の問題を取り上げてみましょう。

仕事とは、「ある空間に位置する人や物体に対して、自分の注意と行動を注ぐこと」です。

人が、人々や物体や、それらが位置する空間に直面できなくなると、途方に暮れたような気分になってきます。 その人は霧の中を動き回るような感じになり、 すべてが彼にとって現実的なものではなく、自分の周りにある物をコントロールする能力も比較的低くなっていきます。 事故に遭い続け、悪いことがたび重なり、また、物事が自分に抵抗しているのは、ただ彼がそれらを処理してもいなければコントロールしてもおらず、正しく観察することさえしていないからです。 未来は彼にとってはとてもひどいものに思え、時としてそれは、向かい合うことができないほどひどいものになります。 このような人は、ひどく内向的になっていると言えるでしょう。

仕事をしていても、この人は、せいぜい自分からわずか1メートルほどしか離れていない物体に注意が釘付けになっています。 自分の手の届く範囲にあるものに最大の注意を向けているのです。 これによって、外向した状態から、少なくとも目の前にある焦点に注意を向けるようになります。 彼の注意はそこに固着します。 もしそれが、昔のキズ、事故、手術と一致するものなら、以前にあった何らかの点にまた注意を固着させ、過去の嫌な記憶が呼び起こされることになるでしょう。それによって、そのケガを受けた瞬間の痛みや病気、疲労感、無気力、または無気力より下の感覚を経験します。 そうなると、彼の注意はそこにずっと釘付けになり、当然、仕事をしていない時でさえ、ただそこだけを見つめるということになりがちです。

会計士を例に取ってみましょう。 彼の目は一定距離をおいて、帳簿に向けられています。 遂に彼はそこだけを見る「近視」になります。 実際、近視になるというよりも、「帳簿眼」になるのです。 彼の目は、ある特定の距離をおいた点に極めて簡単に固着します。 さて、そこに注意を固着させると、その点からも引き下がりがちで、遂には、完全に自分の帳簿にもリーチできなくなります。 そして、帳簿がもっとはっきりと見えるようにと眼鏡をかけるようになります。 彼の視力と注意力は、ほとんど同じものになります。

機械や帳簿や物などに対して、常に一定距離を保っている人は、仕事から離れても、仕事をしていたまさにその場所に注意を留めたままにしがちです。 つまり、彼の注意は仕事から離れるということが全くないのです。 彼は帰宅しますが、依然として「オフィスに座って」います。 彼の注意は、依然として仕事の環境に固着しています。 もしこの環境が何らかのケガや事故と一致するのなら(そして、誰がこういったものをひとつも持っていないと言えるのでしょうか)、 彼は倦怠感や疲労感を覚えるようになります。

これを治す方法はあるのでしょうか? もちろん、サイエントロジー実践者だけが、この困難な状態を完全に解決することができます。 しかし、その労働者にも自分でできることがあります。

さて、帳簿係、会計士、事務員、役員、機械工などの職業にかかわらず、やってはいけないことがあります。 それは、仕事から離れて、家に帰って、腰掛けてくつろいでいる時でも、仕事場でいつも何かに対峙(たいじ)するのとおおよそ同じ距離のところにある物体に注意を固着するということです。

例えば、ある職長の場合、自分から特定の距離にいる人々に絶えず話していますが、彼が行ってはいけないことは、家に帰っても、職場で使うのと同じ距離を置いて奥さんに話すことです。 気が付くと、彼女は自分がまるで作業場の一員であるかのように命令を受けているということがわかります!

確かに行ってはいけないことは、家に帰ってから、腰掛けてくつろぎ、新聞を読み、夕食を取り、寝てしまうということです。 決まりきった仕事を朝から晩まで行い、夜になってゆっくりと本や新聞を読んで「休息を取る」生活をしていると、遅かれ早かれ、とても疲労したと感じるようになります。 さらにしばらくするとそのずっと下へと落ち込んでいきます。以前にはとても簡単にできた仕事なのに、やる気が全くなくなり、それを少しも不思議だと思わなくなってしまうのです。

行うべき正しいことはあるのでしょうか? ええ、あります。 仕事場で何かの物にずっと注意を固着させている人は、勤務時間は、何か別のものに注意を固着させるべきでしょう。

散歩

サイエントロジーにおいて「散歩する」として知られている手順があります。

このプロセスはとても簡単に行うことができます。

仕事が終わって疲れたと感じた時には、外に出て、休まったと感じるまで、近所を歩いて回るべきです(そうやって歩くことを考えただけでぐったりしてしまうとしてもです)。 要するに、自分が歩いている近くにあるさまざまな物が見えるようになるまで、近所を歩いて回り、さまざまな物を見るべきだ、ということです。 その区画を何周歩いて回るかは問題ではなく、気分良く感じるまでその区画を歩いて回るべきです。

疲労を治す単純な方法は、「散歩」です。 単に付近を歩き回り、さまざまなものを見ます。

付近を歩き回ってさまざまなものを見続けると…

…疲れた感じは消え去り、もっとエネルギーを感じるようになります。

これを行っていると、まず少し気分が晴れてきて、次にさらにかなりの疲れを感じることでしょう。 十分に疲れたので、ここで、このままベッドに入ってぐっすり眠るべきだと「思います」。 しかし、その時点ではまだ疲労を通り抜けているところですから、散歩をやめる時ではありません あなたは疲労を「歩いて消去している」のです。 これは疲労を運動によって処理しようとしているのではありません。 人々にとって何よりも運動が重要な要素であると思われていますが、実際にはそれほど重要ではありません。 重要な要素は、仕事から「注意を引き離し」、自分が生きている物質世界に注意を向けることなのです。質量とは現実性です。 親愛の情やコミュニケーションを向上させるには、実際には質量に直面してそれを受け入れる能力が必要です。 したがって、近所を散歩しながら建物を眺めることによって、人のトーンが上昇するのがわかるでしょう。 かろうじて足を引きずって歩くことしかできないほど疲れていたり、興奮してしまって全く休めないほど疲れている場合には、実際のところ質量に直面することが必要なのです。 彼はただ、トーン・スケールの低いところにいるだけです。 「肉体的なエネルギーの衰え」など本当にあるのかどうか実に疑わしくさえあります。 もちろん、このプロセスには限度があります。 昼間は一日中働き続け、夜は夜で一晩中街中を散歩して、次の日また仕事に行って、それでも安堵感を得る、といったことなどできません。 しかし一日中内向した後には、人はいくらかの時間、外向して過ごすべきなのは確かです。

「散歩」はそれ相応の、万能薬とも言えるものです。

例えば奥さんに対して敵対心を感じたりした時にやってはいけないことは、「奥さんを殴ること」です! 正しい行為は、外に出て良い気分になるまで散歩をして、その状況から外向するまで、奥さんにも別の方向に近所を散歩させることです。特に労働者の家庭で生じる不和はどれも(過度の緊張というよりはむしろ)、実際に仕事に対して過度に固着すること、またそれに関連した状況から生じているのです。 仕事の環境において特定の物事をコントロールし損ない、 それでその人は家に帰って自分がコントロールできるものを見付け出そうとします。 大抵の場合、その矛先は配偶者や子供に対して向けられます。 そこでもコントロールをし損なうと、その人のトーンは急降下することになりかねません。

注意を外向させることは、仕事そのものと同じくらい必要なことです。 注意を内向させることも、仕事も、悪いことではありません。 興味を持つことが何もなければ、彼は精神的に参ってしまうでしょう。 ただし、そこで仕事を続けると、不自然な疲れが起こりがちになることがわかるでしょう。 これが当てはまることがわかったら、これに対する解決策は、睡眠のように、数時間「無意識状態になること」ではなく、実際に注意を外向させて、それから本当にリラックスした睡眠を取ることです。

これらの内向化と外向化の原理から、多くのものがもたらされます。 「散歩」は、ほとんど滑稽とも言えるほどに単純なものですが、もっと複雑な方法を望むのであれば、サイエントロジーにはもっと複雑な手順がたくさんあります。 しかし、仕事に付随する多くの困難は「散歩」によって対処されます。

散歩していると、最初はもっと疲れたと感じ、それから生き生きとしてくるということを忘れないでください。 これは「セカンド・ウインド」として 運動選手たちに知られている現象です。 セカンド・ウインドとは、前回のレースによる疲労を「消去する」ために、環境と質量を十分に実際に取り入れることです。 セカンド・ウインドというものはありません。 あるのは、自分が生きている物質世界に対する外向した状態を取り戻すことです。

見回す

「散歩」とよく似た手順に「見回す」として知られるものがあります。

ある人が、一日中人と話をしていたり、一日中人々に何かを売っていたり、一日中扱いにくい人を扱っていたとしても、やってはいけないのは、社会にいるすべての人々から逃げ出すことです。

そう、人を相手にしている時に過度の緊張を覚える人は、人に対して大きな困難を抱えてきたのです。 もしかしたらその人は医者から手術を受けたことがあり、もうろうとして眺めていた手術台の周りに立ちはだかる「医者たち」の姿が、「すべての人たち」と同一化されているのかもしれません(つまり、じっと立っている人たちすべてが医者なのです)。 ちなみに、これは医者が社会においてすっかり嫌われている理由のひとつです。というのも、医者が外科手術や麻酔療法といった行為を主張し、そのような出来事が日常の出来事と互いに重なり合うようになってしまうからです。

人は、他の人々に接触することで疲労困憊することがあります。

回復法は、人が大勢いる地域を歩いていき、歩きながら人々をよく観察することです。

より多くの人々を見ていくにつれ…

…自分が彼らにもっと思いやりを感じるのがわかるでしょう。 人々によって感じていた過剰な緊張は全部どこかに行ってしまうでしょう。

人と接触することで疲労してしまうのは、自分は注意を他の人にも向けるべきだと感じている一方で、特定の人に注意が固着しているからです。 こういった注意の張り詰めた状態は、彼が観察する人の数を実際に少なくしています。

これを治す方法はとても簡単です。 例えば、人がとても大勢いる駅や大通りに出掛けていき、人々に注意を向けながら通りを歩いていきます。 ただ「人々を見る」、それだけです。 しばらくすると、人というのも「それほど悪いものではない」と感じ、彼らをもっと思いやる気持ちを抱くようになることがわかるでしょう。 しかし、さらに重要なのは、これを数週間、毎日午後遅くに行う習慣をつければ、人に対して過度に緊張してしまう仕事上の状態はどこかに行ってしまうということです。

これはセールスマンにできる一番賢い方法です。というのも、セールスマンは他の誰よりも、人をうまく扱うことができるようになること、そしてまさに自分がしてほしいことを相手にしてもらえるようになること(つまり、売らねばならないものを買ってもらうこと)に興味を持っているからです。 セールスマンは、あまりにも多くの顧客に注意を固着させてしまうため、人と話したり、売ったりするという考えそのものにうんざりしてしまい、自分の活動と営業全般に関して気持ちが下がり、自分のことを全くの「ペテン師」だと思い始めます。そしてしまいには、何の価値もない人間だと思うようになってしまいます。 そういった人は、他の人たちと同様、人通りの多い場所を見付け、人々を眺めながら歩くということをすべきです。 しばらくすると、本当に多くの人々が存在するということ、そして人々はそれほど悪いものではないということがわかるでしょう。

政府の上層部にいる人々に起こることのひとつに、彼らが常に「大衆から守られている」ために、 しまいにはすべてのことを嫌悪するようになり、あらゆる類いの奇妙なことをしがちになるというものがあります。 (ヒトラーナポレオンの生涯を見てください。)

広範にわたる適用

内向化と外向化の原理は、現状よりずっと広く社会で適用できるものです。 一般的に、恐らくストライキを起こそうという考えをなくしたり、生産を著しく向上させるような何かを政府や企業は行うことができるでしょう。 ストライキを起こす労働者たちは、通常「労働条件」に不満があるというよりも、仕事自体に不満があるのです。 自分たちは犠牲者だと思っており、 働きたくない時でも働かされていると感じているため、実際に安堵感を得ようとして気晴らしにストライキをしているのです。 彼らは何かと戦うことができます。 ただそこに突っ立って機械や帳簿をいじくり回しているのではなく、何か別の行動を取ることができるわけです。 不満を持った労働者がストライキに走るというわけです。 仕事に疲れ果て、仕事に不満を持ち、仕事に嫌気がさすと、人はストライキを始めるのに十分な数の不満の種を見付けるようになる、ということが予測できます。 そして、経営者側が大きな問題を抱えているのに、指揮系統の低い地位にある労働者側の協力が得られないとすれば、遅かれ早かれ経営者側は、労働者のストライキを引き起こす状況をつくり出すでしょう。 言い換えれば、悪い労働条件が、労使間のトラブルや労働紛争の本当の原因ではないということです。 仕事そのものに対する倦怠感、あるいは自分の周りの領域や環境をコントロールする能力のなさに、労働争議の「本当の原因」があるのです。

どのような経営者についても言えることですが、十分な収益があって、ひどく逸脱していなければ、労働者に十分な報酬を与えます。 またどのような労働者も、そうする機会がいくらか与えられれば、喜んで自らの職務を果たすものです。 しかし、ひとたび環境そのものが過度に緊張を帯びたものになったり、会社自体が政府の「オバート行為(overt acts)」によって内向したり、あるいは労働者には経営者に対して何の規制力もないことを労働者側が見せ付けられたりすると、その後、労働紛争が起こりかねません。 しかし、こういった観察しやすい行動パターンすべての根底にあるのが、内向化と外向化の原理です。 労働者たちは自分の仕事に対してあまりに内向してしまうと、自分たちのリーダーに対してもはや親愛の情が持てなくなり、自分たちが働いている環境をもはや実際に見ることができなくなるのです。 ですから、そこに誰かが近付いてきて、実際には明らかに真実ではないのに「経営陣はみんな鬼だ」などと吹聴したりできるわけです。 そして経営者のレベルでも、誰かが近付いてきて、これまた明らかに真実ではないのに「労働者はみんな鬼だ」と吹聴することができるのです。

企業の従業員のひとりひとりに個別に対処する方法などなくとも(それは巨大な仕事ですが)、この内向化の原理を扱う完全なプログラムをつくることはできます。 確かに労働者側も経営者側も、内向化すると、ストライキのような不合理なゲームをつくる方法を見付け出すようになります。これは生産を中断させ、工場内、事務所内、あるいは企業内の人間関係や職場環境に崩壊をもたらします。

その治療法は、労働者を大規模に外向させるということでしょう。 ひとつの解決策として、すべての労働者が仕事をふたつ持つことを可能にするというものが考えられます。 そのためには、会社、あるいは政府のような利害関係を持つ団体が、十分な数の「公共事業プロジェクト」を利用できるようにする必要があります。労働者に、自分の専門の範囲外で働くことができるような、そういった仕事を提供するためにです。 言い換えれば、非常に固定された仕事を絶えず室内で続けている人が、戸外で行う仕事もできるとすれば、それが何か関係のない仕事であればなおさら、本当に良い気分転換になるということです。

例を挙げれば、会計係がしばらく排水溝を掘ることができれば、とても良い気分転換になるでしょう。 いつも据え付け型の機械ばかり操作している機械工は、ブルドーザーを乗り回して作業をするのは、実際にとても楽しい経験だと思うでしょう。

したがって、計画は、実際に「内向化」と「外向化」を大きな援助として取り上げて、それをもたらすようなものになるでしょう。 そうすれば、固定された位置に非常に注意を近付けて働いている職員は、もっと広い範囲を見られるようになり、外向化させる傾向のある物事を扱う機会が与えられるでしょう。 そのようなプログラムは、大掛かりではありますが、確実に労使関係の改善、生産率の向上、仕事と賃金という主題に対する、労働および社会における緊張の大幅な緩和という結果を生むことがわかるでしょう。

要は、この内向化-外向化の基本原理を使ってできることはたくさんあるということです。

この原理はとても単純です。 個人があまりに内向させられると、彼を取り巻くものがあまり現実的でなくなり、そうしたものに対するその人の親愛の情が減少し、それらとのコミュニケーションがうまく行かなくなります。 こういった状態になると、人は疲れやすくなります。 内向化はまず倦怠感、疲労を生み、それから働く能力が奪われます。 これを回復させるのが外向化、つまりより広い周囲の環境にしっかりと目を向け、それとコミュニケーションを交わすことです。 働く人なら誰でもケガや病気などに見舞われがちだという事実を考慮すると、これを実行しなければ螺旋(らせん)状悪循環が結果的に起こることになります。仕事はますますつらくなり、遂には何も成し遂げられなくなるという螺旋状悪循環です。 こうして非生産的な社会というだけでなく、犯罪的な社会の基盤が出来上がるのです。

軍隊で、前線から最も隔たったところにいる部隊。

例えばバッテリーを電気器具と「接触」させて継続的に使用することで消耗させるのと同じように、エネルギーが徐々に減少していくこと。

何かとともに起こること。またはそれに続いて起こること。

釘で打ち付けたように動きが取れないようにすること。またその状態。

遠くがはっきり見えないこと。

実際の物体、生活の中にある物のこと。

愛、好意、その他のあらゆる感情的な態度のこと。好意の度合い。 親愛の情の基本的な定義は、良きにせよ、悪しきにせよ、相手との距離に対する感じ方である。

何かとともに起こること。またはそれに続いて起こること。

アドルフ・ヒトラー(1889–1945年)。20世紀のドイツの政治的指導者。第三ドイツ帝国として千年にわたって統治する支配者民族の形成を夢見ていた。 1933年、独裁者として、力ずくでドイツに対する支配権を得て、第二次世界大戦(1939-1945年)を開始。そして多くのヨーロッパ諸国を自分の支配下に置き、ユダヤ人や他の「劣等民族」、さらに自国民さえも含めて、何百万もの人間を殺戮した。 1945年、彼はドイツの敗北が差し迫った時に自殺した。

ナポレオン・ボナパルト(1769–1821年)。フランスの軍事指導者。 軍事力によってフランスの権力の座に昇り、自ら皇帝であることを宣言し、1815年に彼に反対する連合軍に最終的に敗れるまで、ヨーロッパ中を征服する軍事行動を指揮した。 1799年から1815年のナポレオン戦争では50万人が死亡した。

個人や状況が悪化することで、さらに悪くなる可能性が増すこと。 「螺旋状」とはここでは、螺旋の形を取って徐々に下に落ちていく動きを指しており、容赦なく事態が悪化しているさまを示している。 この用語は、事故や熟練した飛行士の離れ業に見られるような円を描きながら降下していく飛行機の動きに由来する。もし立て直さなければ、旋回して落ちていく円の直径はだんだんと小さくなり、遂には操縦不能となって墜落する。